|
様式美について
(2009年に書いた文章に、2019年に読みやすく加筆修正しました)
最近は作品の傾向が、技巧(テクニック)にまかせて書くのではなく、
気楽に書いて気楽に見れるもの、見ていて肩の凝らないものがいいと感じます。
これはうまいだろう、とか言いたそうな
技巧にこだわって技巧を見せびらかすような作品にはあまり魅力を感じなくて、
どこかに人間らしさや、なんとなく生っぽい、技巧の計算が行き届きすぎない
雰囲気を感じる作品が好みのようです。
ただ、個性といいかげんな技法を混同しているような作品は
好きではないので、印象として洗練されていることが大切だと思います。
今のこのような好みの傾向も
しばらくすると変化していくと思います。
(2009年にこう書いていますが、2019年も基本の好みは変わっていません。)
技巧を一辺倒に尊重するのは、いい言い方では様式美になり、
きつい言い方では、ただ同じような技法の字ばかり書いているとも言えそうです。
書道や習字では、同じ字ばかり繰り返し書けることを良しとするイメージが
あるかもしれませんが、中国の唐時代にはすでに芸術性を自覚している書において、
過去に著された書論(書の理論)の文章をひもとくと、書の価値の根本は、
実はそういうものではないことがわかります。
ただ、様式美は美の一つですし、技巧(技術や技法)の修練も必要です。
技巧の鍛錬ができていない状態でいい書を書くのは難しいのは事実ですし、
技巧を軽んじるているわけではありません。ただ、これはこうしなければいけない、
などと一つの形式に重点を置き、技巧の様式のみにこだわることは、
長い歴史のある書の本来の姿から遠ざかってしまうように感じます。
歴史を振り返れば、欧陽詢にしても黄庭堅にしても王鐸にしても、
様式美ではないのかと言われれば、様式美であると認めざるを得ないのですから、
様式や型にはまった字を書いていることがいけないと言うのではありません。
様式にとらわれすぎて、こだわりが強くなり、書の表現の幅が狭くなってしまうようでは
書の根本を見誤ることがあると考えているのです。
書の様式や風格は、その人となり、であると思いますので、
どのような書でも、自然な表現ができればそれでよいと考えることが自然です。
今後どのように表現の好みや技法の好みが変化していったとしても、 少しずつ変化していくことで常に清新なものが 作れるのではないかとも考えています。
現代の社会は、筆と紙ではなく、パソコンやスマホ、ペンが普及していますが、
筆という柔らかい素材で手作業で書くという書の味わいが常に評価され、
その時代とともに書が一定の存在感を放っていることを願っています。
|